義経元服の地 鏡の里と平家終焉の地を訪ねて
源義経ロマンウォーク:滋賀県竜王町 2005/04/24(日)

義経が元服した「鏡の宿」と、
平家の総大将平宗盛父子の最期の地「平家終焉の地」

滋賀県のほぼ同じところにあります!
それは何かの因縁でしょうか?
そのいわれを探るため源義経ロマンウォークにたくさんの方がご参加くださいました!

行  程 JR野洲駅―平家終焉の地(野洲市大篠原)―西光寺跡の宝篋印塔(竜王町鏡)―道の駅竜王かがみの里(昼食)―義経元服池鏡神社御幸山義経宿泊の白木屋跡―篠原駅

@平家終焉の地 平宗盛 清宗父子の胴塚(首洗い池)(かわず鳴かずの池)
平家の終焉の地は壇ノ浦ではありません。
義経が元服した滋賀県竜王町の「鏡の宿」から、京の方へ少し通り過ぎた野洲市大篠原(おおしのはら)に、平家の総大将平宗盛(たいらのむねもり)清宗(きよむね)父子を処刑した地があります。
義経は元服後も「鏡の宿」に立ち寄っているのですが自ら元服した鏡の宿を血でけがすのを避けてわざと通り過ぎたと言われております。
平家終焉の地 真ん中が宗盛塚 宝篋印塔(ほうきょういんとう)
@平家終焉の地 平宗盛 清宗父子の胴塚
当時はもっと大きな塚であったそうです。
首洗いの池は昭和55年までは2町(218メートル位)程有りましたが開発で埋め立てられ今は六分の一程の大きさになっています。
A宝篋印塔(ほうきょういんとう)
A西光寺跡の宝篋印塔(ほうきょういんとう)
伝教大師(最澄)が夢の御告げにより鏡山十二峰の一つ星ケ峰の麓に(818年)建立した「西光寺」(滋賀県竜王町)は、嵯峨天皇の勅願所(ちょくがんしょ)で、増坊(そうぼう)三百坊といわれていました。
足利尊氏が、元弘(げんこう)3年4月20日(1334)、後醍醐天皇に帰順を表明した所でもあります。
源頼朝も往還の時、西光寺でしばし宿泊をしています。
康平(こうへい)2年(1060)の乱で一山焼亡し中興されましたが、信長の兵火(1571)で廃寺となります。
その名残をとどめているのがこの宝篋印塔(ほうきょういんとう)で、昭和35年2月に国の重要文化財に指定されました。塔の高さ210cmの堂々としたもので笠石の下の塔身の周囲は180cmです。2段の基壇を築き、その上に孔雀の向かい合っている格挟間を彫った基礎を置き塔身、笠、相輪を積み重ねています。また、石の角に梟(ふくろう)の彫刻は、大変珍しくあまり例のない塔であるといわれています。鎌倉時代後期1300年頃の作。

B八柱神社(やばしらじんじゃ)跡の石灯籠(いしどうろう)
この石灯籠は、西光寺の鎮守八柱神社の社宝で高さ2.8mあり裏面に「応永(おうえい)28年8月8日(1422)願主敬白」の刻銘があり、室町時代初期の作とされます。
願主は不明。
当時の様式の多くは、丸柱の中央に周帯を有するものですが、八角柱は珍しく笠を持ち火袋には四仏が彫られていて優美な意匠を凝らしたもので特に珍重される背の高い灯籠です。重要文化財指定。
石灯籠(いしどうろう) 石灯籠(いしどうろう)前 仁王尊(におうそん)
B石灯籠(いしどうろう) C仁王尊(におうそん)
C西光寺跡の仁王尊(におうそん)
西光寺跡地のお堂に祀(まつ)られている石の仁王尊で、そのうちの一体は、昔、山崩れの際に地下に埋没されたといわれています。
毎年7月1日の千日会(せんにちえ)には、足の病を癒してくださると言い伝えがあり、この日には草鞋(わらじ)をお供えする風習があて平癒(へいゆ)を願う参拝者が今も絶えません。

D道の駅竜王かがみの里
滋賀県で10番目の道の駅で、国道8号線沿いでは初めてできました。
古来の街道、古道、東山道、中山道「鏡宿」に位置し、歌枕として数多く詠われた「鏡山」、渡来文化の足跡も数多く残り、自然に恵まれた場所で、周辺には源義経の元服池等があります。
地元農家からの新鮮な野菜・果物・花などを提供する地場産品コーナーや、竜王町および周辺の特産品コーナー、近江牛・近江米(竜王産)を使った御膳や丼など美味しいメニューをご用意しています。
道の駅竜王かがみの里 みそ汁サービス お昼ご飯
D道の駅竜王かがみの里でお昼ご飯(みそ汁サービス)

E義経の元服池
義経元服の折、鏡池の石清水を用いて前髪を落とし、また、元結の侍姿を池の水に映したとも伝えられています。
この池は裏山の湧き水がしみ出てきているもので水道が整備されるまでは、付近の人家の飲料水として使用されたほど大変澄みきった美しい水で、旅する人々も喉を潤したものと思われます。
国道8号線が出来た折、少し移動されました。
義経の元服池 烏帽子掛け松 鏡神社
E義経の元服池 F烏帽子掛け松 G鏡神社
F烏帽子掛け松
義経が元服後、参拝したときに松の枝に鳥帽子をかけたとされる「鳥帽子掛けの松」があります。
明治6年台風で倒れたため株上2.7mを残し石垣上に仮屋根をして保存されています。
その他、鏡神社石段の手前に「弁慶の筵石(むしろいし)」と呼ばれる平たい石(むしろを敷いた跡が残ったように見える石)があるのも義経と弁慶を偲ぶ地元の思いが語り継がれている一つです。
G鏡神社
町おこし、国つくりなど行政文化の発展、諸産業の技術向上、農耕商工業繁盛など、諸々の生業(なりわい)繁栄にご利益があるとされる。
また、平安時代の武将 源義経が当地で元服して源氏の再興と武運長久を祈願したことから武術学業の向上、開運成就、家系繁栄にも御利益がある。
第11代垂仁(すいにん)天皇の御代(紀元元年)に帰化した新羅(しらぎ)国の王子天日槍(あめのひぼこ)を祖神として祀っています。
本殿は三間社流造り(さんげんしゃながれづくり)、こけら葺で南北朝時代の建築で国の重要文化財に指定されています。

H元服の折使用の盥(たらい)の底板
義経が元服する時に使ったといわれる盥の底板が現在も残っています。
これは「鏡の宿」(滋賀県竜王町)の長者、白木屋の沢弥傳(さわやでん)家が代々家宝として残してきましたが、昭和5年に家系が絶えたので現在は鏡神社で保管されています。
また底板が半月板のようになっているのは、戦時中出征される人が武運を祈り、お守りとして少しづつ削り取って戦地へ持って行かれたためと伝えられています。
盥の底板 八幡神社 源義経宿泊の白木屋跡
H盥の底板 I八幡神社 J源義経宿泊の白木屋跡
I源義経公と応神天皇を合祀 「八幡神社」(はちまんじんじゃ)鏡神社の境内社
鏡神社の参道石段をのぼった右手に小さな社があります。
このお社には応神天皇(五世紀頃)と源義経公が合祀(ごうし)されています。
応神天皇は誉田別尊(ホムダワケノミコト)ととも言われ、兵法にすぐれ国を栄えさせ学術技芸を栄えさせた長寿の天皇とあります。
したがって兵法にすぐれたと言う点で源九郎義経公に合い通じ、共に合祀されたものと思われます。
この神社は、鏡神社の境内社(末社)のため、あまり知られていませんが、元服後の判官義経公を祀り、他の境内社と異なり京都鞍馬の方角に向けられています。
J源義経宿泊の白木屋(しらきや)跡
承安4年3月3日に京都の鞍馬寺より奥州下向の途中、近江の「鏡の宿」(滋賀県竜王町)に着いた牛若丸一行は、当時の宿駅の長(おさ)であった澤弥伝(さわやでん」の「白木屋」の旅籠に泊まりました。
追っての目を欺くため、急ぎ髪を切りただひとりで元服することを決意した牛若丸は、源氏の左折れ烏帽子を烏帽子屋五郎太夫(えぼしやごろうたゆう)に折ってもらい、それを冠して元服し源九郎義経となる義経誕生の地です。
昭和30年に台風のため屋敷は壊れてしまい、取り除かれて現在は石碑のみとなっています。取り除かれるまでは、義経にあやかる男児の「とがらい祭り」の斎場として使われていました。烏帽子屋五郎大夫の屋敷は廃絶し民家裏側の竹やぶになっています

K御幸山(みゆきやま)
宮山こと御幸山は、大正帝がおなりになった小高い丘があり、頂上からの景観は大変素晴らしいです。
記念に植えられた松の木は今は古松となり庭木にしたいものがたくさんあります。
また、町の花アエンボの群生、4月の花盛りは素晴らしく、公園風の丘になっています。
御幸山ハイキングコース 御幸山頂上 アエンボ
K御幸山ハイキングコース K御幸山頂上 Kアエンボ

鏡の里名所探訪MAP→

主催協賛
滋賀県蒲生郡竜王町小口3番地
竜王町・竜王町観光協会
義経元服ものがたり→http://www.town.ryuoh.shiga.jp/yoshitune/